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「ダッチ」とつくと、あんな意味になってしまうワケ

ダッチ(Dutch)とは英語で「オランダの」という意味である。しかしどうだろう。我々が耳にする言葉で「ダッチ」がつく言葉はあまりいい意味に使われていないような気がする。たとえば「ダッチ・ワイフ」や、日航機の墜落事故ですっかり有名になってしまった「ダッチ・ロール」など。ほかにも英和辞典を開いてみると「goDutch」(割り勘でいく)、「Duchauction」(競り下げ競争)、「Dutchcomfort」(ありがたくない慰め)、「Dutchcourage」(から元気)……とオランダ人がかわいそうになってくるほどだ。あるオランダ人にいわせると、こうなった理由は、イギリスとオランダの歴史が発端になっているのだとか。十六世紀のオランダは、小国ながらも商業によってかなりの財力を持ち、国の活路を国外に求めて、強力な艦隊で東洋のほうまで進出しては植民地化していた。いっぽうイギリスも艦隊を持っており、東インドまで進出していたが、あるときオランダがイギリスの艦隊を破って東インド支配権を手に入れ、イギリス人を排斥してしまった。これによってヨーロッパでのイギリスの権威は大いに失われてしまった。その歴史的な恨みと劣等感から、そういう意味が生まれたのではないかというのだ。もっともイギリス人にいわせると、「あれはオランダ人を侮辱した表現ではなく、彼らの性格や国民性をよく表しているのだ」とか……。

田舎の秘湯にノンビリ浸り、不景気を忘れる

アメリカと露天風呂というと妙な組み合わせだと思うだろうが、これが結構ある。アメリカには西海岸から内陸部に入った一帯、あるいは雪山を望む標高2000メートル以上の高原や森の中、砂漠の中等々、全く異なった風景の中に湯が湧いている。アメリカの温泉は、19世紀のゴールドラッシュの時代に開拓された。以前はインディアンたちに保養地として利用され、彼らは温泉には武器を持たず裸で入ることとし、種族間で戦う間も温泉内だけは休戦を保っていた。その風習が現在でも残され、多くの温泉が水着はつけず、素っ裸で入るのがしきたりとなっているのだ。アメリカの温泉には2種類ある。まず鄙びた温泉。電気も通わず、ランプで夜を過ごすような山の中にある秘湯である。例えば、サンフランシスコの北東225キロの所にあるウィルバー・ホットスプリングは、近くのスーパーまで35キロもある山の中の一軒宿だ。またシエラネバダ山脈を望むホットクリーク温泉は、砂漠の真ん中の温泉地で、水着を着ても着なくとも誰も見ていない秘湯中の秘湯だ。入湯者の話では道なき道を車で進むと野生の鹿やリスに出合うという。もう1タイプは、ドイツのバーデンバーデンのように設備が整ったクアハウスである。現地で風呂に入る時のマナーだが、混浴でもタオルで前を隠さず、湯の中にタオルを入れぬこと。日本同様入浴前にシャワーで身体を洗うのは常識だし、浴槽内で酒を飲むのもご法度だ。お湯は日本よりややぬるめだが、その分長く浸れるし、周囲の雄大な風景は、さすがアメリカならではの迫力がある。例えばデンバーからロッキー山脈を横断したグレンウッド・スプリングスは、コロラド川のほとりに湧いた温泉町だ。町の中央に「グレンウッド温泉プール」と呼ばれる大きな温泉プールがあり、大小ふたつの湯温の違うプールがあり、その規模は世界有数だ。この温泉は、ユタ・インディアンによって発見され、当時の洞窟が蒸気を噴き上げる天然サウナ「ヤンパ・ホットスプリングズ・スパ&ベイパー・ケイブ」として営業していて、エステサービスもある。またアメリカには、ヨーロッパのクアハウスのように巨大な共同浴場を持つ温泉町も多い。

当時の日本の人口は一〇万人前後

当時の日本の人口は一〇万人前後だったが、その四分の三はこの地方に住んでいた。ところが、大陸から米作が伝わるにつれて新しい技術をもった人たちがこの地方にも移住し、徐々に土着の人たちも新しい文化を受け入れていったが、結核などの病気も渡来して縄文人の人口を減らしもした。もっとも、大和朝廷に反抗した蝦夷が狩猟採集民であるというわけではない。農業は早くからこの地方でも行われるようになっていた。それでも、北東日本に新しい技術や社会制度を持ち込み開発を進めようという動きは、それを歓迎しようという人たちと反抗する勢力のあいだの対立も生み、何度かの戦乱の原因ともなったし、その結果、かなりの数の蝦夷が西日本などに移住させられもした。しかし、平安遷都前後には坂上田村麻呂による土着勢力への融和策と軍事的な制圧が成功し、東北のほぼ全域が日本国家の枠内に入った。その後も、強い独自性をもつような動きは断続的に続いたが、源頼朝が平泉に本拠を置く奥州藤原氏を滅ぼすことで関東武士団による支配が確立し、それが幕末まで続くことになる。その間も、かなりの規模の人口流入があり、征服者である新しい領主や家来たち、それに、ビジネス・チャンスを求める商工業者のほか、江戸時代の初期には新田開発、後期には仙台藩で三〇万人、津軽藩で人口の半分近くの一一万人の餓死者を出した天明の飢饉による人口減の穴埋めで組織的で大規模な農民の移住があった。しかし、いずれにしても、北東日本の大きな可能性を開いていくことは、時代による濃淡こそあれ日本国家にとっての重大事だった。明治以降についても、国土政策などの上で北東日本が冷遇されていたわけではない。むしろ、明治政府にとって東北・北海道の開発は最重要の事業であり、民営とはいえ仙台が東京と鉄道で結ばれたのは明治二十年(一八八七年)で、二十二年の束海道本線全通に先立つものだったし、国立の学校や釜石製鉄所、安積疎水、鉱山の近代化などの事業も行われた。その結果として、江戸時代末期に天災や各藩の失政で低迷していた人口も明治になって順調に伸び始めた。